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肉体的な力の重要性
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人と人が争っている。
それを第三者として見て、理不尽だと感じた場合、その人はどうするだろうか?
多くの人は見過ごしていくだろう。
あるいは、その有様をバラエティー番組を見るように眺める。
片方は明らかに悪意を持った存在である。
その悪意を持った存在が圧倒的な力で弱者を蹂躙している。
その間に入って話を綺麗に片付けよう、と考える人は少ない。
他人事に入っていき、トバッチリを受けるのはゴメンだからだ。
はっきり言おう、
理不尽を目の当たりにし、怒りを感じないなら、そいつは欠陥人間である。
理不尽はあってはならない事であり、それに心が屈すれば、
どうしようもない悔しさに苛まれる。
人が10の力を必死に蓄え、10の力で頑張っている光景を、
自分の都合で破壊する理不尽な悪意。
その悪意に勝てない人は絶対に勝てないが、2個の負けを1個に減らす事はできる。
徹底的に立ち向かう、という気持ちが残っていれば、
自分の中での勝負には負けないからだ。
できる事をやった上で、力が及ばないのは仕方が無い事だ。
ただ、周りを見ていると、理不尽と呼ぶに値しないモノを理不尽と呼ぶ人が多い事に気づく。
カップルが歩いていた、チンピラ数人に絡まれ、
金を取られて男が半殺しにされた上に、女は犯された。
これは理不尽だろうか?
いや、理不尽と呼ぶには値しない。
その男は普段体を鍛えていただろうか?
もし鍛えていないのなら、それはその男にできる事をしてない結果であり、
回避できる悪意を持った力に負けた事になる。
相手が軍隊なら理不尽だろう。
しかしチンピラが相手なら、相手の人数、道具しだいでは簡単に返り討ちにできる。
(当然、格闘技に精通したチンピラなんて話は無し)
(さらに、中途半端な抵抗のせいで悲惨な事態に発展する可能性もあるが・・・)
つまり、自分は女が欲しいけど、ジャマくさい事はしたくない、
セックスさえできればそれで良い、という考えで女に接している事になる。
意識的、あるいは無意識的に、女が犯される事は仕方が無い、と思っている事になる。
愛してると言っても、孤独感から逃げる手段として「女を守っている自分」
などと勝手に想像し、気持ち良くなっている感情の高ぶりであって、
地に足の付いた愛情では無い。
愛情があるならそういった危機を想定し、体を鍛えてもしもの時に女を守れる力を手にしようとする。
マトモな人は「暴力反対」を体現しながら、トレーニングにはげむ。
優しさの足りない人は「暴力反対」と言って何もしない。
真剣に考えて欲しい。
自分の子と散歩をしていて、チンピラに「おいオッサン、金出せや」
と言われ、チンピラに気を遣いながら金を出す父親を見て、
その子は父親をどう思うだろうか?
力には、社会的地位、肉体的な強さ、いろいろあるが、
悪意を持っていない人がそれを手にするのは良い事だ。
平均以上の社会的地位を求める姿勢はよく見ることができるが、
治安がどうであれ肉体的な暴力は今も昔も続いている以上、
大切な人に肉体的な暴力が被されば、相手を上回る肉体的な強さが求められる。
瞬時に置いては、肉体的な力がスベテ、と言える場合がある。
現実を見れば、暴力に勝てる力をあらゆる方向から手にする必要がある。
誰かを愛していると言うなら、あらゆる暴力を想定し、
それに対抗する力を求める事が大事だ。
せめて理不尽と呼ぶには値しない暴力からは、避けられるように自分を高めよ。
1 (暴力を振るうのは好きだが、振るわれるのは嫌いだ。
この考えを持っている人が不幸になるのは、仕方が無い)
2 (暴力を振るっていないと思っていても、振るっている場合がある。
優しさが足りない人である。
その人は、自分が優しさの足りない人だと思っていない)
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