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無気力な理由
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大金持ちの人がいたとする。
その人は、限りなく物的欲望を果たせる。
今までもコレからも、先に対する不安が無く、幸せが待っている。
その人の描く幸せの絵のとおりに見れば、それは事実である。
しかし、それが諦めというモノである。
幸せになれるとわかっているから、もうどうでもよくなり、
結果的に不幸になるのである。
人はわからない事から湧き出る探究心が行動力になり、
その先を見る事で、満足感を得られる。
あらかじめ想定でき、それが今までに感じたモノと同じ事だと思えば、そんな当たり前に魅力は無い。
そう考えると、人が生きる活力にしているのは、
「わからない自分」なのではないか、と思う。
わからない事柄を解き明かしていく事が楽しいから生きているのではないだろうか?
無気力化が広まっている現代の傾向も、その意見を助ける。
自分が社会人となり、諦めを多く強いられる事がわかっているから、
探究心と行動力が生まれず、無気力になるのである。
理不尽が、この社会の最も人生を左右する膿であり、
力無きモノがいくらあがいても、結果は出ない。
輝く人のほうが輝かない人よりも圧倒的に少ない事がわかっている以上、
自分が何をしても、どうせどうにもならないと思い込む。
そうなってしまうと「物的欲望の達成こそが自分を幸せにする」
という考えに頼ることしかできなくなる。
勝ち負けの勝ちこそが自分を癒すモノなら、
大半は敗北を喫する社会において、踏ん張りが無意味と感じてしまう。
なぜ「幸せになりたい」と強く願い「戦う」ことをしないのか?
時間が流れるにつれ、人はモノを卑しく利用するようにできているものだ。
そんな人が、他者が過ごす環境を左右する立場で指導するわけなのだから、
当然、若いうちから人々は刃を抜かれながら成長する事になる。
人がそれに気づくのは、良い出会い。
自分を正しさに導いてくれる良い出会いをする事である。
そしてその出会いを迎える可能性がごく少数である事も、
人を無気力にするのだろう。
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僕は幾度となく、自分を知り尽くした気になったが、
今、次の舞台にワクワクする気持ちがある以上、
僕はまだ自分を理解しきっていないのだろう。
あるいは次の標的が自分から、物的欲に移ったのかもしれない・・・
いや、それは無いか・・・
1 (食べ物を見て、食べる前からその味が想像でき、その味に期待ができない時の事を思う。
それと同じで、わからない部分に期待感が芽生える毎日はきっと楽しいよ)
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