自分の本質を探す必要



「運命として、スベテは決まっている」
と、論理性を省いて発言する人が多くいるが、だからどうしたというのだろう?

人が人生において得る結果を「幸せ」「不幸」の二つで言うなら、
「運命として、スベテは決まっている」と悲観的に話すのは、
もちろん「不幸」に当てはまる人である。

そして「幸せ」を決める目安は、あくまでも、心が満ちているかどうかであって、
有名人になる、金持ちになる、大会(ジャンルはなんでも)で優秀な成績を残す、などは問題としない。
人が満足を得るには、そのラインがあってこそ可能であり、
当然「上には上がある」などと考えていては、心が満ちることは無い。

人それぞれ(この世のモノスベテ)には役割がある。
その役割とは「自分の本質を表に出す事」である。
「桜なら桜の花を咲かせる」という意味であり、
自分の種を上手く育て切る事で満足を得られる。

しかし、人間は「憧れ」という気持ちが多数の心を蝕み、
「自分以外のまったく違うモノになりたい」と願ってしまう。
それは環境により、小さい家に住む人は大きい家に憧れるよう、
単純に自分に無いモノを持ち、それを手にする事で、現時点で自分が抱えている不満が消える、と思っているからである。
しかし、桜がバラに憧れたところでバラにはなれず、
誰かが桜の上にバラの絵を描いたとしても、それはバラになったわけではない。
「あっ! あいつマネしてる!」と言われ、良い気はしないだろう。
何より仮初めの迷彩では、オリジナルの輝きには普通に考えて及ばない。
いずれ虚しさを知るだろう。

そしてここで、今まで言ってきた事を少し崩す話をするが、
肝心なのは「自分の本質を表に出す事」であり、
桜がバラに憧れてバラになろうとするなら、それも良い。
なぜなら、その桜の本質は「バラに憧れ悩む桜」なのかもしれないからだ。
イジメられっ子がイジメっ子に憧れるのも実に良い。
そのイジメられっ子の本質が「イジメっ子に憧れ、いじけるイジメられっ子」、
あるいは「イジメられっ子が、憧れたイジメっ子に辿り着く」などならね。

つまり、結果的に幸せになれば、間違いなくそれは本質であり、
たんなる社会が用意した環境上に与えられた「無いモノねだり」としての憧れなら、それを得ても幸せにはなれないだろう。
(「無いモノねだり」として憧れる人生が本質ってのなら良いですよ♪)

これで、生きていく上で何が必要かがわかっただろうか?
それは「自分の本質に添って生きていく」という事。
それができれば、おそらく運命論を否定したりはしない。
それができない可能性の方が高いのが、今の社会環境。
そんな環境だからこそ「自分を見つめ」、本質を探る行為が大事になり、
考え事をする時間を大切にしなければならない状況を、
携帯電話やインターネットが邪魔をしてしまう場面が目立っている。

人が哲学的な発想(生きていて何になるのか? など)を持つ時期は、
人が自分に不満を覚え初めた時、
あるいは、不満をどうにかしよう、と進みだした時である。
その時、どれだけ根っからの解決を求めるかどうかが人生を左右する。

運命がスベテを決めていて、解決できるかどうかも決まっている。
できない事はできないし、できる人にはできる。
これは事実だが、そこで「自分はできる」という気持ちは持てないだろうか?
今満足できない、という状態は多くの人が経験する事だと思う。
でも、今は今であり、結果は今ではない。
運命論を用いて悲観するのは、解決する事が不可能だ、と思わせるくらい難問にぶち当たっているからであり、
幸せになれば「運命最高!」と思えるモノである。

運命だからどう、って考え方は自分を無気力にする一方なので、
幸せな結果が出ればスベテは良し、と考え、
今日も、明日も「自分を見つめる」という行為にふけってほしい。

どうせ今のままなら心は満ちそうに無い、という事実を知り、
「幸せになりたいから戦う!」
そう強く想う人ほど、望みを叶える可能性は高い。
どうすれば幸せになれるのか?」と考える時間を大切にし、
「自分の本質を探す日々」を続けてほしい。

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「なぜ本質に添って生きなければ幸せになれないのか?
なぜ本質に添って生きれば幸せになれると決まっているのか?」

それは、自分と同じ存在はこの世に自分だけであり、
自分自身に迷いの無い本質を見出し、
それを実際に表現することで、自分は唯一無二の光を放っている、と自覚できるからである。

環境に少しでも他とのズレがある以上、自分は自分一人である。

自分がココに生きている、という証明は他人が決めるのではなく、
自分に迷いがあるか無いか、自分が自分を信じているか、それが左右する。

自分で自分を信じれたなら、気持ち良いでしょう?


1 (この話は理論がもうひとつですが、内容の質は的を射ている確信はある)

2 (カッターナイフがハサミの代わりになる場合がある、逆もある。
  しかしハサミの方が効率が良い時には、カッターではなく、やはりハサミを使いたい。
  ハサミとカッターが完全に同じ役割なら一つは生まれない、って発想も踏まえてほしい)

3 (言うまでも無い事だが、例えば最高の恋人と出会った事、
   これを運命と言い、何か気持ちの良い雰囲気を作ったりもするが、
   結果はスベテ運命であり、出会っても出会わなくても運命である。
   ようは「良い運命」か「悪い運命」かである。

4 (迷いの無い幸せを感じる事が、幸せの体現である)


人が自分を見失うのは、確実に他との差による不満からであり、
時間が流れるにつれ、手軽な安心を求めるよう感覚が染み込み、
勝ち負けの、勝ちに寄り添いたくなっていくモノ。
精神的なダメージが環境により多く与えられるからこそ持ってしまったこの発想を、
まず取り除く事が課題になるだろう。

自分を見る事をせず、ひたすら他との勝負にしか目が行かない。
人に勝つ事と、自分の本質はまったく異質のモノであり、
その事実を隠蔽した優劣社会への反抗が必要である。

そしてそれは、その感覚が馴染んだ自分への反抗でもある。



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